【画像35枚】村上宗隆の幼少期から高校時代までの伝説エピソード13選!子供の頃から大食いで負けず嫌いだった?怪物になるまでを振り返る!

【画像35枚】村上宗隆の幼少期から高校時代までの伝説エピソード13選!子供の頃から大食いで負けず嫌いだった?怪物になるまでを振り返る!
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村上宗隆の高校時代の伝説エピソード!子供の頃から大食いでよく寝る子だった?怪物になるまでの幼少期も振り返る!
村上宗隆の高校時代の伝説エピソード!子供の頃から大食いでよく寝る子だった?怪物になるまでの幼少期も振り返る!

村上宗隆選手は、2000年2月2日に熊本県熊本市で生まれました。

身長188センチで、血液型はO型です。

みゃんち

ファンからは「村神様」と呼ばれていることで有名だね!

出身学校・経歴
  • 小学校:熊本市立託麻南小学校
  • 中学校:熊本市立長嶺中学校
  • 高校:九州学院高校
  • ヤクルトスワローズ

2022年、史上最年少で三冠王になり、シーズン56本塁打を記録。

村上宗隆選手のこの記録は、日本人登録選手としては史上最多でした。

また、2023年3月のWBCでは準々決勝のイタリア戦まで打率.235と調子を上げられず不調が続いた。

それでも、マイアミでの準決勝・対メキシコで逆転サヨナラ2点二塁打を放つと、決勝・対アメリカでは1点を追う2回にライト2階席へ特大の同点ソロ。世界がざわめいたインパクトある活躍を見せました。

2023年のWBCで大活躍を見せた村上宗隆選手
2023年のWBCで大活躍を見せた村上宗隆選手

そんな村上宗隆選手の、怪物になるまでの幼少期から子供の頃~高校時代の伝説エピソードを詳しくまとめたので紹介していきます。

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目次

村上宗隆の幼少期から高校時代までの伝説エピソード13選!

村上宗隆の子供の頃!怪物になるまでの幼少期の伝説的記録!
村上宗隆の子供の頃!怪物になるまでの幼少期の伝説的記録!

2000年2月2日熊本県熊本市東区で3人兄弟の真ん中、次男として生まれました。

村上宗隆選手にはお兄さんと弟さんがいます!

兄の影響で幼少期の4歳頃からキャッチボールを始めたそうです。

小学4年で「託麻南小野球クラブ」に入団して野球を始めると、すぐに「プロ野球選手になりたい!」と言い出したそうです。

それでは、村上宗隆選手の幼少期・子供の頃を調査したので見ていきましょう。

伝説①幼少期からとにかくよく食べるしマイペース!負けず嫌いで頑固な子供だった!

とにかくよく食べるしマイペース!負けず嫌いで頑固な子供だった村上宗隆
とにかくよく食べるしマイペース!負けず嫌いで頑固な子供だった村上宗隆

寝るにしてもご飯を食べるにしても、全てがマイペース。
性格的には負けず嫌いで頑固。自分が決めたことは絶対に曲げない。
プロではこういう性格の子が成功するんです。

今井譲二さん

普通の茶碗なんですけど、みんな3杯は食べろ!と言いました。しかし、ムネは茶碗に7杯~8杯を次から次へと食べていく。もう漫画の世界でしたね!

みゃんち

小学生の頃から焼肉もご飯7~8杯食べていたの!?すごっ!!

プロ野球で成功した選手は、王貞治さんにしろ金田正一さんにしろ、ほとんど大食いです。

胃腸の弱い選手は大成しない」とよく耳にしますね。

また、村上宗隆選手が子供の頃の野球の夏合宿に20人部屋で、周りの子供たちはみんな楽しくキャッキャ遊んでいる中で、村上選手一人だけ爆睡していたそうです。

まさに「寝る子は育つ」。これは村上家の方針だったようです。

この頃から周りに流されずに自分をもっていた。まさに大物になる人とはこういう人ですね。

九州の熊本県で「寝る子は育つ」が家族の方針ですくすく育った村上宗隆
九州の熊本県で「寝る子は育つ」が家族の方針ですくすく育った村上宗隆

また、村上宗隆選手の3人兄弟はとにかくお母さんの作る手料理が大好きでした。

父:公弥さん

3人は、好き嫌いなく何でも食べました。食べ終わったら、家の前で素振りをするのが習慣でしたね。そして、おっきなジャガイモを洗うみたいに3人で風呂に入って、夜8時半には眠りについて、とにかくよく寝ました。息子たちの身長が、上から193cm、188cm、190cmなんです。母ちゃんのご飯をいっぱい食べて、大きく育ってくれましたね。

村上家は、食事、弁当、家での団らん、家の玄関で3兄弟が並んでスパイクの泥を落とす光景の日常生活だったそうです。

くま吉

「お母さんのごはん」が村上宗隆選手の原動力で、献身的な家族のサポートを受けて育ってきたんですね!

村上宗隆選手は自身のストレスケア法について、

まずは寝ること、ご飯を食べることが1番かなと思います。
毎日のことで、そこに変なプレッシャーやストレスを感じたくないので、とにかく美味しいご飯を食べて、よく寝るということをすごく意識しています。

幼少期・子供の頃からの生活のいい影響がプロにも生かされていることが、村上宗隆選手のコメントを見ても分かりますね。

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幼少期から野球を始めたきっかけは2歳上の兄の影響

2歳上の兄の影響で野球を始めた村上宗隆選手
2歳上の兄の影響で野球を始めた村上宗隆選手

村上宗隆選手は、「託麻南小野球クラブ」で野球をしていた2歳上の兄の影響で、まだ幼稚園に通っていた4才頃からキャッチボールをするようになりました。

村上宗隆選手が幼稚園時だった頃、兄と野球を習っていた際にすぐに「プロ野球選手になりたい」と言っていたそうです。

小学校4年生の時に、兄の影響を受けて少年野球チーム「託麻南小野球クラブ」に入団します。

そして、小学校6年生の時に元プロの吉本亮の父が指導している硬式野球チーム「熊本東リトルシニア」に入団。


このチームは元プロ野球選手の吉本亮の父親が指導するチームで、2歳上の兄も同じチームでプレーしていました。

吉本監督

私が最初にムネ(村上宗隆選手)を見たのが、小学校5年の時です。2歳年上の兄がチームに入団して、お母さんに連れられてきてグラウンドにやってきました。他に来た友達と遊んだり、キャッチボールをしたり、その辺をウロウロしたり、本当に甘えん坊の頃から見てます。
小学校6年生の11月頃からムネも入団しましたが、当時は体も小さくて周りより大きい印象は全くありませんでした。お兄ちゃんが投手だったので、後ろを守ってエラーして怒られたりとか、そんな姿がすごく印象的に残っていますね。元気は当時から良かったですけど、実力的にも目立って上手いわけではなくて、学童の中で少し上手いかなというぐらいです。

村上は小学5年生から、お兄ちゃんにひっついて遊びに来て、キャッチボールをしていたそうです。

小学生の頃の村上宗隆選手は、甘えん坊で可愛い男の子だったんですね!当時、野球を始めたばっかりの頃はまだ目立って上手いわけではなかったようですね。

伝説②小学4年生ですでに広角にホームランを打ち分ける技術が芽生えていた!?

小学4年生ですでに広角にホームランを打ち分ける技術が芽生えていた村上宗隆選手
小学4年生ですでに広角にホームランを打ち分ける技術が芽生えていた村上宗隆選手

小学4年生の頃、南阿蘇村の白水運動公園で試合だった日、ここで村上選手は2打席連続ホームランを記録します。

打球方向は1本目がレフト、2本目がセンターでした。

小学生の頃に村上宗隆選手の指導をしていた今井譲二さんは、

今井譲二さん

ムネ、今度は引っ張ってみろ!

 と、指示を送りました。そして迎えた3打席目、今井さんの指示通りライトスタンドに3本目の連続ホームラン。

執事さん

2022年に村上宗隆選手が王貞治の記録抜き、日本選手最多ホームランを記録した56本塁打の内訳は、センター方向に13本、ライト方向に25本、レフト方向に18本です。

まだ小学4年生の10歳の時点で、広角にホームランを打ち分ける技術が芽生えていました。

この時、今井さんは度肝を抜かれたといいます。

今井譲二さん

ムネ、この球場で4打席連続ホームランを放ったもんは1人もおらんらしいぞ!

外野では、センターもレフトもライトも、村上宗隆選手の規格外のパワーに恐れ始め、フェンスにへばりついていたそうです。

4打席目、村上選手が放った打球は快音を発して右中間へ。思いがけずベンチを出た今井さん。

しかし、打球はあと少しだけ伸び足りずにツーベースで終わります。

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小学生の頃の将来の夢はプロ野球選手になって「巨人に入団」

村上宗隆選手の小学生の頃の将来の夢はプロ野球選手になって「巨人に入団」
村上宗隆選手の小学生の頃の将来の夢はプロ野球選手になって「巨人に入団」

村上宗隆選手の子供の頃は、お父さんがよくジャイアンツを見ていた影響から「巨人入団」が夢だったそうです!

「活躍してお父さん、お母さんにお金をいっぱいあげたいです」なんて、なんと優しい子なんでしょう!

現在ではこの夢について、

僕ヤクルトめちゃめちゃ大好きなんで、本当にヤクルトに入って良かったと思っています!

しっかり、ヤクルトをフォローしていますね(笑)

どのチームに入たとしても、プロ野球選手になって大活躍している姿がお父さんお母さんからしても誇り高いですし、本当にカッコよくてたくましいと思いますね。

伝説③中学時代は素直で可愛く真っすぐな人間性から先輩から可愛がられる存在だった

選手はどう伸びるかわからない!小粒だった村上宗隆が長打力を身につけた中学時代
選手はどう伸びるかわからない!小粒だった村上宗隆が長打力を身につけた中学時代

村上宗隆選手の中学時代は、小学校6年生の時に入団した硬式野球チーム「熊本東リトルシニア」でプレーします。

熊本東リトルシニアの吉本幸夫監督

中学2年生になると、3年生に交じって「3番二塁手」で試合に出た。
「特に飛ばす、というほどではありませんでね。

 この時点ではまだ、プロ野球で三冠王に輝いた今の打棒を予感させるまでではなかったそうです。

 村上宗隆選手の打球の飛距離が急に伸びを見せたのは、中学3年生になった頃だそうです。

それでは次に中学時代の村上宗隆選手を見ていきましょう!

素直で可愛く真っすぐな人間性から先輩から可愛がられる存在だった村上宗隆選手
素直で可愛く真っすぐな人間性から先輩から可愛がられる存在だった村上宗隆選手

村上宗隆選手は、長打のヒッターとして成長を見せましたが、キャプテン力もありました。

中学生時代の当時、周りをよく見ていて、ノックの時は驚くくらいにずっと内野に声をかけっぱなしだったそうで、1歳上の先輩たちの中でもリーダーになっても引っぱっていけたと思います。

キャッチャーをやっていた頃、投手がフォアボールを出すとすぐマウンドに駆け寄ったり、内野手をやっていた時も先輩投手のところにすぐに駆け付けていって励ましの言葉をかけていたそうです!

人のプレーで心から喜べるんです。だから先輩からも可愛がられるし、自分のプレーでも上手くいくのかなと。本当にお茶目で憎めない大阪のおばちゃんという感じで、あの子はこのままずっといきそうな気がするんですよね。

練習面でも、村上宗隆選手は自分の中で「今日は何をやる」と目標を決めて、自分と約束を守る。

自分に嘘をつかず、自然と向き合えるからこそ上手くなっていったんだろうと思います。

一人で黙々とマシン打撃の練習をしているときも、いい当たりをすると普通は満足しますが、村上選手はもっともっとと、マシンに近づき、通常の3分の2ぐらいの距離で打撃練習をしていたそうです。

指導者に言われて練習する選手ではなく、自ら練習できる選手だったり、周りに気配りも欠かさない素直で真っすぐな人柄から可愛がられる存在だったのだと思います。

きっとこの村上宗隆選手の人柄は、現在のプロの世界でも同じだと思います!

伝説④長打力よりもミート力が上手かった

長打力よりもミート力が上手かった中学時代の村上宗隆選手
長打力よりもミート力が上手かった中学時代の村上宗隆選手

村上宗隆選手は、中学生時代は同期の中では中心選手で、先輩たちの中でも打撃力があり、2年生から3番を打っていました。

熊本東リトルシニア」の吉本監督は、中学生時代の村上宗隆選手について、

吉本監督

大きな当たりを打つというよりも、いい当たりを打てるかなぐらいの感じ。長打よりもミートの上手い選手という印象の選手でした。
そんなにすごいバッティングだったというわけではなく、逆に今の選手たちには中学2年生でこれくらいのスイングでも、将来は村上選手のようになれるかもしれないよと言っているそうです。高校時代の九州学院ではキャッチャーをやっていましたが、キャッキャーをやらせたのは2年生秋でした。それまではずっとセカンドをやっていたので、その経験も現在に繋がっていると思います。

中学時代のセカンド、キャッチャーというポジションも、村上宗隆選手の現在のプレーにまで成長させた大きな経験に繋がったのですね!

村上宗隆選手の長打力は、子供の頃からずっとあったわけではなく、徐々に成長していったことが分かります。

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伝説⑤「九州選抜での台湾遠征」と「U-15の落選」で覚醒した中学時代の村上宗隆選手

九州選抜での台湾遠征で覚醒した村上宗隆選手
九州選抜での台湾遠征で覚醒した村上宗隆選手

村上宗隆選手が中学2年生の2013年11月2日、熊本東リトルシニアのキャプテンとして臨んだ大会の3回戦で、同じ熊本の八代リトルシニアに9対1で大敗しました。

その試合後、リトルシニア九州選抜チームの大津修郎監督に「九州選抜に入って、台湾に行きたくないか?」と声を掛けられ、背筋をピンと伸ばして「行きたいです!お願いします!」と答えた村上宗隆選手。

リトルシニア九州選抜チームの大津修郎監督は、絶対に将来プロになると確信していた村上宗隆選手、西浦颯大(元オリックス・バファローズ)、増田珠(福岡ソフトバンクホークス)は、“九州の三羽烏”として最初から選ぶと決めていたそうです。

村上選手はその中で3番を打っていました。周りのメンバーのレベルの高さにここで衝撃を受けたそうです。

吉本監督

大会から帰ってきて、よう努力し始め、練習への意識がかなり変わりましたね。トレーニングにも精力的に取り組むようになり、もちろん体が大きくなったこともありますが、3年生になって打球がかなり飛ぶようになりました。自分なりの研究もしたのでしょう。そこからです。中学生として、ずば抜けて大きな打球を飛ばすようになりましたね!

一方で、九州選抜で共に活躍した西浦や増田が15歳以下のワールドカップ日本代表に選ばれたのに、村上選手だけ一人が落選し、再び挫折を味わうことに。

なんで僕だけ選ばれなかったんでしょうか…。

選考会では、西浦と増田はそれぞれホームランを打っていたそうで、村上宗隆選手のバッティングも良かったが、周りの選手のなかでは不足していた。

この「U-15の落選」の後、練習への意識が変わったと吉本監督は振り返っています。

吉本監督

暇さえあればバットを振っていました。驚いたのはマシン打撃で徐々にマシンに近づいていったこと。最終的に3分の2くらいの距離で打つんです。自分なりに考えて取り組んでましたね。体も大きくなった中3の春ごろからはボールも飛ぶようになり、ある練習試合でライト側の高いネットを越える特大ホームランを打ったときは、相手の監督さんも唖然としてました。9月に卒団してからも休まず練習に通っていて、高校入学後のことも見据えてましたね」

村上宗隆選手の負けず嫌いと頑固さから、必死に練習して這い上がってきたのですね!負けず嫌いからくる努力は、本当に人を強くするのですね。

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伝説⑥打球が飛びすぎて民家の屋根に穴を開けていた!?体格も飛距離も全てが急に伸び始めた中学3年生!

体格も飛距離も全てが急に伸び始めた中学3年生の村上宗隆
体格も飛距離も全てが急に伸び始めた中学3年生の村上宗隆
吉本監督

選手はどう伸びるかわからないですね。

吉本監督は、「体を開かせないよう、内側からバットを出せ」と、左中間にも強い打球を飛ばせるようにティーバッティングなどでフォームを教えたそうです。

吉本監督

本人は引っ張りたいと不満に思っていたようですが、だんだんと屋根に穴を開ける回数が増えまして……(笑)

 ただし、周囲の大人たちは、逆方向へのバッティングを推奨するだけで終わりにはせず、保護者たちが穴が開いてしまった民家の屋根をその日のに修繕したり、グラウンドのネットを高くしたり、村上が右翼方向にのびのびと打てるように環境を整えてくれていたそうです。

これもまた村上宗隆選手の伝説ですね!(笑)

周りの大人たちがしてくれていたサポートのお陰で、今の村上宗隆選手のバッティングに繋がっていきます。

伝説⑦原点は中学時代!村上宗隆と王貞治・松井秀喜との違いは「打球方向」

原点は中学時代!村上宗隆と王貞治・松井秀喜との違いは「打球方向」
原点は中学時代!村上宗隆と王貞治・松井秀喜との違いは「打球方向」

村上宗隆選手のバッティングの長所といえば、球を引きつけて、広角に強い打球が飛ばせる、右にも左にも大きな当たりを飛ばせることが最大の特長ですよね。

なぜ、村上宗隆選手はこんなに逆の方向に打てるのかは、中学生時代の環境と監督の言葉が影響しています。

「熊本東リトルシニア」が使っていた、益城町の福田町民グラウンドが左翼に比べて右翼が狭かったので、村上宗隆選手の場外へ飛び出した打球が民家の屋根に穴を空けてしまうので、吉本監督が左中間に打つように指示したことが自然と反対方向へ飛ばす技を磨かれ、広角に打てることに繋がった。

村上宗隆選手も、王貞治も、松井秀喜も同じ左打者です。

この3人は、打球方向を見るとタイプがちょっと違うパワーヒッターだということが分かります。

  • 王貞治:1964年に架けた55本のアーチは、8割以上がライト方向に集中
  • 松井秀喜:2002年に50号を放った。右中間・ライト方向に33本を固めた
  • 村上宗隆:センター方向に13本、ライト方向に25本、レフト方向に18本

左にも打てるのが僕の強み

と、自負するように、センターからレフト方向にも打球を飛ばせているのが王貞治と松井秀喜との「打球方向」違いです。

中学3年でチームを引退した後も「高校では1年からレギュラーで活躍することを目標」に、練習に顔を出して後輩たちと同じメニューをこなして汗を流したそうです。

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伝説⑧高校時代の監督が村上宗隆を一目でプロ行を確信!

中学3年生で急成長を遂げた村上宗隆7選手は吉本監督の推薦もあって、強豪校九州学院高校へと進学します。

高校時代は、身長187㎝、体重93㎏でした。

村上宗隆さんは高校時代、1年春から一塁手、1年秋以降からは引退まで捕手としてプレーしました。

入学直後から4番を任され、1年夏の熊本大会では初戦、初打席で満塁ホームランを放ち、猛烈な高校野球でビューを果たします。

同年夏の甲子園にも4番として出場するが初戦敗退。

甲子園は、1年時の出場を最後に、春・夏どちらも甲子園に戻ってくることは叶いませんでした。

高校時代は、2年・3年の夏は宿敵・秀岳館に熊本大会決勝で負け、甲子園出場は叶いませんでしたが、村上宗隆選手の異次元の長打力から肥後のベーブ・ルース」と呼ばれるまでになっていました。

高校時代の監督が村上宗隆を一目でプロ行を確信!
高校時代の監督が村上宗隆を一目でプロ行を確信!

中学時代から有名で騒がれていた清宮幸太郎が早稲田実業高に入学した2015年、九州学院の村上宗隆選手は1年生ながら熊本大会で満塁本塁打を放つ華々しいデビューを果たしていた。

高校時代の九州学院高の育ての親である坂井宏安監督は初めて見たときの村上宗隆選手について、

坂井宏安監督

村上が中学の時は一度も見てないんですけど、うちに入部してきて初めて見た時、「この子はプロに行くな…」って思いましたね。

「試合前の練習」は、多くの選手が前でバットにボールをチョコンと合わせているだけの中で、1年生だった村上宗隆選手は1球1球明確なインパクトとトップを作り、ワンバウンドで相手に打ち返すトスバッティングをしていたそうです。

実戦のスウィングと同じ方法で、トスバッティングを丁寧に繰り返し行う。本当の意味で「試合前の練習」をしていた。

坂井宏安監督

ちゃんと柔軟な膝の対応で低いボールも手で返すだけじゃなく打ち返してね。この子は上手いなぁと思いましたね。当時は体もまだ細くてパワーよりボールを捉える上手さが目立ってましたね。練習を繰り返してインパクトも強くなり、スウィングスピードが上がって、打球が上がるようになったんです。最初から現在みたいなホームランバッターではなかったんですよ!

高校時代、とにかく本当によく練習する子だったと監督は言います。

坂井宏安監督

でも、練習はただ闇雲にやる訳じゃないんです。自分のためになる練習というか、これはいい方法だと思ったら、とことんやるんです。これをやると自分の為になる、そうすればチームのためになる。だから練習する。練習に対してすごく純粋な入り方をする子でした。

ここまで練習にストイックになれる人はなかなかいないですし、それも才能ですよね。

村上宗隆選手は高校時代も野球が本当に好きで、本気でプロに行きたいのが分かりますね。

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伝説⑨打球があまりにも飛ぶため九州学院に通称「ムネット」が設置された伝説!

村上宗隆選手の打球があまりにも飛ぶため九州学院に通称「ムネット」が設置された伝説!
村上宗隆選手の打球があまりにも飛ぶため九州学院に通称「ムネット」が設置された伝説!

高校時代にキャッチャーだった村上宗隆選手と、バッテリーを組んでいた1学年下の後輩である田尻裕昌さんは「芯でとらえた時の打球はどこまでも飛んでいった」と証言しています。

田尻裕昌さん

九州学院のグラウンドはセンター方向に駐車場があるんですけど、練習試合でムネさんが打ったホームランが、普通はまず届かないその駐車場の保護者の車を直撃したんです。それ以降、ムネさんの打球から車を守るため“ムネット”と呼ばれるネットが新しく設置されました!

プロ野球の大スターは、吉田正尚選手もそうでしたが、ネットを建てられたりする伝説があるんですね(笑)

吉田正尚選手の異次元だった子供の頃についてはこちらの記事をご覧ください↓

伝説⑩高校通算52本ホームランを記録!

高校通算52本ホームランを記録した村上宗隆選手
高校通算52本ホームランを記録した村上宗隆選手

村上宗隆選手は高校時代、高校2年と3年生では、甲子園に出場することはできませんでしたが、中学3年生から伸び始めた規格外のバッティングパワーと、レフトとライトに打球方向を操れる才能で、高校通算52本塁打を記録しました。

 村上宗隆選手のパワーがプロのスカウトの目に留まり、2017年のドラフトでは、清宮幸太郎選手(北海道日本ハム)を外した巨人、巨人、そしてヤクルトから1位指名を受け、ヤクルトくじを引いて入団することになりました。

WBCで活躍した選手の中では、吉田正尚選手が高校時代に52本塁打という村上宗隆選手と全く同じ数字の記録を残しています。

うさ子

村上宗隆選手と同じ年齢のでライバルであった清宮幸太郎選手は高校時代の通算本塁打が111本でした。

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伝説⑪個人成績よりもチームの勝利を大切にしていた選手だった!

村上宗隆選手は個人成績よりもチームの勝利を大切にしていた選手だった!
村上宗隆選手は個人成績よりもチームの勝利を大切にしていた選手だった!

高校時代の村上宗隆選手の特徴としては、ランナーが居る場面でのバッティングは進塁打を打ったり、チャンスが来る場面では逆方向の打球を打つなど、チームに貢献するプレーを見せていました。

ピンチではピッチャーの声掛け、守備では誰よりも常に大声で奨励し、周りを見て気配りを欠かさない選手でした。

村上宗隆選手は高校時代は、自分個人の成績よりもチームが勝利することを大切にしていたということが分かります。

  • チームの勝利に貢献する為に何がなんでも塁に出ることを考えていた
  • 打席数の半分がフォアボールになっていた

この2点の、監督の証言からも分かります。

村上宗隆選手は高校時代、実力も高い上にチームのために自分を犠牲にしていたため、仲間たちからの信頼も厚かったと言います。

自分に使える打席が少ない中で、高校時代の2年半で52本塁打の記録を出した村上宗隆選手は凄いバッターだったということです。

性格が純粋で良いことが伝わってきます。村上宗隆選手は、高校時代にもっと個人成績を優先していれば、さらに記録が伸びていた選手だったかもしれませんね!

伝説⑫村上宗隆の高校時代はダントツに選球眼が優れていた!

村上宗隆の高校時代はダントツに選球眼が優れていた!
村上宗隆の高校時代はダントツに選球眼が優れていた!

村上宗隆選手は、高校時代に選眼球が非常に優れていたことを九州学院の坂井監督がこう話しています。

坂井宏安監督

村上は高校時代から選球眼は良かった。ボール球を打ちにいったら、私が怒ったからね。

現在、ヤクルトのチームとしてプロで活躍している記録を見てもセ・リーグトップの113個のフォアボールを獲得していて、2位であったジャイアンツの丸佳浩選手の75個に対し38の差を出しているのを見ても、格段に選眼球が優れていることが分かります。

村上宗隆選手は高校時代から選眼球が鍛えられていて実力に繋がったことが高レベルなプロ野球の世界でも証明されています。

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伝説⑬伸びが半端ない!向上心が高かった村上宗隆選手は教えたり叱ったりしやすい生徒だった!

伸びが半端ない!向上心が高かった村上宗隆選手は教えたり叱ったりしやすい生徒だった!
伸びが半端ない!向上心が高かった村上宗隆選手は教えたり叱ったりしやすい生徒だった!

高校3年の最後の夏、甲子園の夢がついえた日。村上宗隆選手は試合終了後にベンチ裏に行ってしばらく姿が見えなかったそうです。きっと裏で泣いていたんだと思います。

……ぼくは先生ともう1回、甲子園に行きたかったです

坂井監督

ムネ、ありがとうな!お前は今からがスタートだぞ。次のことを考えろ。高校時代は清宮君のような華やかなではなかったし、高校日本代表チームにも選ばれなかった。だから薪の上で寝てでも頑張って今からトップチームで日の丸をつける選手になれ。「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」。意味が分からなければ、辞書を引きなさい。高校野球物語は18歳で終わり、プロ入りすれば、今までの成績は関係なくなるし、これからは清宮君や安田尚憲君がライバルじゃない。1歳上、もっと言えば10歳上、15歳上のおっさんたちと勝負しなきゃいけない。

坂井監督が村上宗隆選手にそのような話をしたのが心に刺さったのか、ヤクルトからドラフトで1位指名を受けた後に村上宗隆選手はこう話しています。

自分の方がまだ下だから、清宮君や安田君をライバルとは思っていません。気にしていません。

村上選手は、素直で真っすぐで真面目な性格とあって、坂井監督の言葉をしっかり受け止めていますね。

坂井監督

ムネは向上心が高かったから教えたり、叱ったりしやすい生徒なんだ。自分の課題を練習したり、しっかり体を動かしておこうといつも言っているのですが、ムネは必ずグラウンドに来て練習していましたね。

村上宗隆選手は、先生に叱られても、そのことに対してしっかり受け止めて取り組む選手だったことが分かりますし、特に高校時代は内面からもプロで成功するステップを確実に踏んでいたんですね!

村上宗隆の高校時代のポジションはキャッチャーとファースト!プロで内野手に転向した理由とは

村上宗隆の高校時代のポジションはキャッチャーとファースト!プロで内野手に転向の理由とは
村上宗隆の高校時代のポジションはキャッチャーとファースト!プロで内野手に転向の理由とは

村上宗隆選手は高校時代の守備位置はキャッチャーとファーストでした。

そして、2017年のヤクルト入団時はサードに転向され、内野手として登録されました。

高校時代の守備位置はキャッチャーとファーストでしたが、プロ入団時にはサードにコンバートされ、登録も内野手での入団でした。

村上選手は、大きな体格でも動きも素早くキャッチャーとしても高校トップレベルと言われていました。

プロでキャッチャーに転向した理由は、高校時代の九州学院の坂井監督はこう話しています。

坂井監督

村上宗隆選手は、記憶力が良くてリード面の勉強をすれば相手ピッチャーの配球を読めるようになって更にバッティングが良くなる。
ストライクを打つ。野球というスポーツはよくできていると思うよね。ボール球に手を出したら、ヒットになる確率はグーンと下がるんだから。
打ちたい、打ちたいではダメなんだよ。悠然と構えて、本塁ベース上に来た球を打つ。ちゃんと我慢ができるかどうかも、打者は試されている。

高校時代の監督の指導もあってか、プロ野球の試合でもむやみにストライクボールを振らずに待ち球をカウント別に変えるなど、打席で工夫している場面をよく見ますね。

ヤクルトでレギュラーに定着したプロ2年目は「打たなければ」という思いで、必死にボールを追いかけていた姿が目立った。そのため確かに三振が目立っていました。

プロ入団から、村上選手が年々打率を上げてバッティングの確実性が出きて、怖さもなくなり結果が付いてくるようになったのは高校時代の経験と指導のお陰かもしれません。

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まとめ

以上【画像35枚】村上宗隆の幼少期から高校時代までの伝説エピソード13選!子供の頃から大食いで負けず嫌いだった?怪物になるまでを振り返る!と題してお届けしました。

村上宗隆選手は子供の頃から高校時代までを紹介しましたが、非常に練習熱心で個人成績よりもチームを優先する、とても素晴らしい心の持ち主の選手でした。

現在、村上宗隆選手はプロでヤクルトの選手として活躍されていますが、誰よりも負けず嫌いで努力型なので、この先もWBC以上の素晴らしい活躍を見せてくれると思います。

お読みいただきありがとうございました。

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