- 小学校:姉体小学校
- 中学校:水沢南中学校
- 高校:花巻東高等学校
ドジャーズの大谷翔平選手が野球を始めたのは、小学2年生~小学3年生の子供の頃です!
岩手県にある「水沢リトルリーグ」に入団します。
才能はすぐに開花し、小学5年生のときに、中学生チームではエースになれる球速110キロを記録。
驚愕!小学5年生ですでに中学生のエース級を投げてたの!?
「二刀流」として野球界での世界スターになった大谷翔平選手は学生時代の若い頃、ピッチャーとバッターのどちらかを選ばないといけないという風潮があった中で、幼い頃から「両方で試合に出たい!」と強い意志を持っていました。
周囲からは、「できるわけないだろ」と反発の声もたくさんあったんだそう。
花巻東高校時代では、「両方できる!」と甲子園でも大活躍を見せました!そして、プロ野球に入団する前に「二刀流」の思いを球団に話したところ、「日本ハムファイターズ」の当時監督だった栗山監督が理解を示し、現在の大谷翔平選手が誕生していきます。
そんな大谷翔平選手の幼少期、小学生時代~高校時代の伝説的記録をまとめたので紹介していきます。
スポンサーリンク大谷翔平の幼少期の伝説エピソード6選!
小学生時代の頃から、天才的な才能を発揮してきた大谷翔平選手。
- 田んぼと畑しかない岩手県で優しい両親のもとですくすく育った大谷翔平選手
- 大谷翔平選手の実家はファンの聖地になっている
- 小学生時代の生活は9時には寝ていた子供だった!
- 両親に買ってもらったハリーポッターの本をとても大切にしていた一面も
- 寝たら絶対に起きない!?天然でマイペースな子供だった
- 子供の頃の大谷翔平選手は勉強も優秀だった!
大谷翔平選手の幼少期~生い立ちや、小学生時代の野球のこと、生活面でのこと6選を紹介していきます。
①田んぼと畑しかない岩手県で優しい両親のもとですくすく育った大谷翔平選手
大谷翔平選手は優しいご両親のもとで岩手県で3400gで誕生します。
大谷翔平選手の幼少期は、小学校6年生の時にすでに身長が167㎝もあり、同年代の平均身長が145㎝の中で、かなりの高身長でした。
お父さんが182㎝でお母さんが170㎝という高身長な家系ですので遺伝的な部分は大きいと思います。
小学生の6年間の間でなんと40㎝以上もの身長が伸びたそうです!子供の頃から群を抜いて高かったんですね!
幼少期~子供の頃は岩手県の、のどかな環境で育った大谷翔平選手。
岩手県は、都心と比べて外で遊ぶところがたくさんあります。自然がたくさんあるので視野を広げられますし、山登りも下半身が鍛えられ、砂浜を走れば走るための筋力が鍛えられ、動体的にも視力的にも、良い影響が出る環境です。
また、北海道の次に広い県なこともあり、三陸地域の豊富な海産物に山菜、米などの食品レベルが非常に高いです。
大谷翔平選手の規格外の肉体は、子供の頃に育った岩手県の環境によって作られた部分が大きいと推測できます。
スポンサーリンク②大谷翔平選手の実家はファンの聖地になっている
大谷翔平選手の実家は、ファンの中で聖地になっています。70代のおばあさんも来ていたり、女性が特に多いですね。大谷選手の子供の頃を知るために母校の小学校や中学校などを巡るみたいですね。
毎年変わるデザインの、大谷翔平選手を応援する田んぼアートがファンの中で有名です。
岩手県のみなさんが大谷翔平選手を応援しようといった温かな気持ちが伝わってきて、とても素敵な町で育ってきたことが分かりますね。
③小学生時代の生活は9時には寝ていた子供だった!
僕が野球を始めたのは小学校2年生の秋、3年生になるかならないかぐらいの頃です。リトルリーグに所属していたものの、地元の少年野球団みたいな所には入っていませんでした。
なので、小学生の時は土日が基本的に野球の練習や試合があったりという感じで、平日は普通に遊んだり、週2でスイミングをしていました。
睡眠は、夜の9時ぐらいには寝る子どもだったと思います。
小学生時代はずっと野球漬けな生活だったわけではなく、家でゲームをして遊ぶよりもお外で遊ぶことが多かったそうです。
と言います。
周りの友達よりも体が大きかったため、ガキ大将でしたが、悪いグループに入ったりせず、誰にでも好かれるような明るい存在でした。
また、スイミングも習っていたということで、小学生の頃から2つの習い事に熱中していたのですね!子供の頃から頑張り屋さんです。
スイミングを行うことで、肩甲骨の可動性と安定性は野球に好影響を与え続けてくれます。 大谷翔平選手のようなピッチャーとバッターに限らず、野球をやる人にとってスイミングと併用して習い事をすることはメリットだらけなんです。
④両親に買ってもらったハリーポッターの本をとても大切にしていた一面も
小学生時代、ハリーポッターの本がどうしても欲しくなった大谷翔平選手は、泣きながらご両親にせがんで買ってもらったそうです。
そして、やっと買ってもらえてたハリーポッターの本を誰にも触らせないようにとても大切に保管したといいます。
大谷翔平選手はそのやっと買ってもらった本をとても大事にしたそうです。
しかし、本にシワが入った時は、ご両親が大変困るほど泣き叫んだそうです!大谷翔平選手も幼い頃はみんなと同じ子供だったんだなと思うと、微笑ましいエピソードです。
幼少期~子供の頃の大谷翔平選手は、負けず嫌いで無邪気で泣き虫で、体を動かすことが大好きだった少年だったみたいですね。
⑤寝たら絶対に起きない!?天然でマイペースな子供だった
小学生時代に所属していたリトルリーグでは、大谷翔平選手がキャプテンを務めていました。
ちょっと天然なのか、マイペースすぎるのか、その時のミーティングの時間を勘違いして入浴していて怒られたり。
また、小学校の休み時間では、チャイムが鳴ったことに気が付かず運動場で遊び続けてよく先生に怒られていたというエピソードもあります。
大谷翔平選手はきっちりしているのかと思いきや、そんなおちゃめなエピソードに好感が持て、なんだか普通の人間なんだとホッとしますね(笑)
⑥子供の頃の大谷翔平選手は勉強も優秀だった!
大谷翔平選手は、出身中学は“奥州市立水沢南中学校”で、偏差値も高いです。
好きな科目は日本史で、勉強もとても優秀だったそうです。
スポーツ万能、勉強も優秀で高身長なことから、大谷翔平選手が学校の廊下を歩くだけでキャーキャー歓声が上がったそうです。
スポンサーリンク子供の頃から凄かった!学生時代の伝説的記録12選に迫る!
- プロ行きは小学生で確信!幼少期から野球にしか興味がなかった!
- 小5の公式戦で球速110km/h!?小6では120km/hの伝説記録も!
- リトルリーグ時代に「引っ張り禁止令」が出ていた
- 中学生時代ですでに130km/hを連発!
- ホームランで信号機破壊事件!
- 中学生時代に17奪三振をやって退けた!
- 水泳でもオリンピック選手レベルだった
- 花巻東高校で残した大谷選手の伝説的な個人記録がエグイ
- すでにメジャー!?高1で147km/h・高2で151km/h・高3で160km/hの伝説を記録!
- 第25回AAA世界野球選手権大会では12三振・最速155km/hを記録
- 高校2年生からすでにプロ「二刀流」を目指していた!
- 高校のドラフトではすでにメジャーリーグからのスカウトが来ていた!
子供の頃から凄かった、大谷翔平選手の学生時代の伝説的記録12選を紹介します。
①プロ行きは小学生で確信!幼少期から野球にしか興味がなかった!
大谷翔平選手が小学生時代に在籍した水沢リトルリーグの創設者で、大谷選手を自ら指導した浅利昭治さんはこう語っています。
翔平は、幼少期から野球以外に興味がない子供でした。小学校6年生の時に、『この子は将来プロになる』と確信したけれど、メジャーでスターの道を駆け上がるまでになるとは、感無量です。もちろん何もない中で育ったからといって、全員が翔平のようにメジャーリーガーになれるわけではありません。でも、家族がいて、困らずにごはんを食べられる、そんな当たり前こそが幸せである、そういう価値観を岩手の人間は持っている。翔平も同じです。(引用元:yahooニュース)
小学校6年生の時に「プロに行く」と周りの大人が感じるほど、子供の頃からとんでもない才能を発揮していたことが分かります。
②小5の公式戦で球速110km/h!?小6では120km/hの伝説記録も!
子供の頃、大谷翔平選手は、公式戦で小学5年生の頃に110キロという伝説的記録を残しています。
平均的に小学校6年生の球速は90キロくらいです。
しかし、まだまだこれでは終わらず、小学校6年生にして球速120キロを記録しています。
大谷選手と花巻東高校でライバル、仲間として共に戦ってきた小原さんは、旧山岸リトルグラウンドを訪れ、大谷選手との対戦をこう話しています。
大谷は常にホームランを打つと、柵を越えていたイメージがありました。大谷と勝負しない方がいいという風潮がありまして。
小学生時代からすでにみんなから一目置かれていた大谷翔平選手。
勝負しないと決めて、避けた所に投げたんですけど、腕が届いてしまって、ライトにホームランを打たれました。そのシーンだけはずっと忘れません。
対戦では、大谷との勝負を避け、敬遠の作戦をとった小原さん。そのとき、右手だけでホームランを打たれたことは一生忘れないといいます。
小学生の時、約14mの距離で120キロちょっと出てたっていう話だったので、本当にアニメみたいなボールというか…うなってたイメージが強くて。当時は、150キロか160キロぐらいの体感速度じゃないかな。怪物だったなという印象が強い。
一番近くで対戦してきた小原さんが言うのですから、小学生から相当に異次元の世界にいた選手だったということ伝わりますね。
スポンサーリンク③リトルリーグ時代に「引っ張り禁止令」が出ていた
小学生時代に所属していたリトルリーグでは、練習場所が河川敷でした。
ライト方向の先には川が流れており、大谷翔平選手の打球の飛距離がすごくてよく川にボールが飛び込んでしまっていました。
あまりにも、毎回毎回ボールが川に落ちてしまうので、最初は感心していた監督もさすがに勿体ないと思い、子供の頃の大谷翔平選手に「引っ張り禁止令」を出しました。
この「引っ張り禁止令」が出たことが逆に大谷選手にとってメリットが出たようで、逆方向に強い打球が打てるようになり、小学生時代にすでに広角に打ち分けるという技術が身についたそうです。
④中学生時代ですでに130km/hを連発!
大谷翔平選手は中学生に上がると、「一関リトルシニア」に入団します。
リトルシニアの練習場所は、家から1時間ほどかけて離れている場所でした。
週末の練習や、平日2回の夜間連取にもご両親が往復2時間かけて送り迎え兼お父さんの徹さんは、コーチを務めて指導を行っていました。
お子さんを3人子育てをしながら仕事をしながら野球の練習にも付き合って、多忙な日々を過ごされてきたと思います。
身長は、中学3年生ですでに190㎝近くまで伸びました。現在の大谷翔平選手は193㎝の95キロ前後なので、中学生のときに一気に成長したことが分かります。
子供の頃の小学生時代では6年生で球速120キロを記録していますが、なんと中学に上がり球速130km/hを連発を記録。
キャッチャーを担当していた大谷選手の同級生は、球が速すぎて怖くてキャッチできなかったことが多々あったそうです。
高校時代もそうですが、大谷選手は中学生時代でも規格外の怪物だったのです。
大谷翔平選手は、中学生の頃はピッチャーとショートの「二刀流」でした。
2007年中1の頃の大谷翔平選手のショートプレーです
三遊間の深い位置からノーバウンド送球をしていて、肩の強さが分かります。大谷翔平選手の内野時代の映像は貴重ですね!
大谷翔平選手は、花巻東高校1年生の秋、プロレベルの147km/hというスピードをたたき出しています。
そうなると、中学生3年生の頃にすでに140km/hレベルの球速を出していたことが推測できます。
スポンサーリンク⑤ホームランで信号機破壊事件!
中学生時代ですでに異次元のパワーを持っていた大谷翔平選手は、ホームランを打った際に、グラウンドの外にある「信号機」を破壊したという事件があります。
中学生時代から、ホームランを場外によく打っていたそうです。
もちろん、狙って打ったわけではないですが、飛距離が伸びたせいなのか、本来は当たるはずのない場所にある「信号機」にぶち当たってしまったという伝説が記録されています。
⑥中学生時代に17奪三振をやって退けた!
大谷翔平選手が中学1年生の頃、リトルリーグの東北大会決勝戦で17奪三振をやって退けました。
試合で取れるアウト数18個のうち、17個も大谷翔平選手が三振を取りました。そのため相手チームは息を飲んで静まり返ったそうですよ!
他にも、バッティング練習の際には、ピッチャーが怪我をしないように「ピッチャーライナーは打つな」と言われたエピソードもあります。
大谷翔平選手は中学の時から、ヤバいくらいの別格です。
スポンサーリンク⑦水泳でもオリンピック選手レベルだった
子供の頃の大谷翔平選手は、学生時代に身長が猛スピードで伸びました。そうなると、一般的には体を自由自在に使いこなすということが難しくなります。
しかし、大谷選手は使いこなせていたのです。それはもしかすると、習っていたスイミングと関係があるのかもしれません。
子供の頃に大谷翔平選手が習っていたスポーツは、水泳の他にもバトミントンです。
その中でも特に水泳に力を入れていたようですね!
バトミントンはお母さんの加代子さんの影響ですね!
バドミントンの選手だった加代子さんは、中学3年生の時には神奈川県の代表メンバーに選出され、全国大会の団体女子の部で準優勝しています。
ちなみに、大谷翔平選手の水泳のレベルの実力は、オリンピックに出場してもおかしくなかたそうです。
もし、野球をしていなかったとしても、子供の頃からの大谷選手の身体能力の高さから見ると、水泳や他の競技でもオリンピックに出ていた可能性は高いです。
水泳は、肩や股関節の可動域や基礎体力アップ効果があります。大谷翔平選手の今に生きているのは水泳の影響は大きいです。
⑧花巻東高校で残した大谷選手の伝説的な個人記録がエグイ
大谷翔平選手が花巻東高校に進学した理由は、当時メジャーリーグから注目があった菊池雄星選手が花巻東高校の卒業生だったからと、その「菊池雄星を超える」という強い意志があったからです。
花巻東高校に進学をした大谷翔平選手が高校2年生のときにセンバツ高校野球に出場した際、登板した大谷選手は甲子園で球速150キロを記録します。
当時、甲子園に出場した高校1年生のもつ記録の中では最も最速記録でした。
そして、岩手県の準々決勝の地方予選ではアマチュア史上で最速の球速160キロを記録し、一気に世間から注目が集まることになります。
大谷翔平選手の高校時代が当時テレビに映っていたことはハッキリ記憶に残っています。
大谷翔平選手が高校時代に残してきた伝説的記録は本当にすごいとしか言いようがありません。
明確な目標シート設定している人とそうでない人では10年後の収入がまったく違うものになってくるようです。
大谷翔平選手のように目標シートに書いたことをしっかり実行していくことは、簡単なことではありません。
スポンサーリンク⑨すでにメジャー!?高1で147km/h・高2で151km/h・高3で160km/hの伝説を記録!
大谷翔平選手の高校1年の記録
大谷翔平選手は、高校1年生の時に球速147キロを記録し「とんでもない1年生がいる!」と話題になりました。
当時、メジャーの平均球速が149.3キロだったので、すごい実力だったことが分かります。
高校1年生のとき、ピッチャーもしながら打順はすでに4番でした。
大谷翔平選手の高校2年の記録
そして、高校2年で夏の甲子園にエースとして出場し、この大会では、球速151キロを記録します。
この時は、打者として3打数1安打、打率3.33、投手として5イニング2/3、自責点1でした。
「みちのくダルビッシュ」と呼ばれたのはこの頃でした!
体の状態に関係なく、自分の力がなかった。もっと大きくなって甲子園に戻ってきたい。
発言から頭の良さが分かりますよね。なんて謙虚なんでしょう…!
大谷翔平選手の高校3年の記録
大谷翔平選手は、春の第84回選抜高等学校野球大会に出場しました。
5回までの投球では、2安打無失点の6奪三振と好投したものの、8回3分の2を11奪三振11四死球で9失点(自責5)して敗退。
そして、夏の岩手県大会の準決勝で一関学院高等学校との対戦でみせた伝説的記録がこちらです。
夏の岩手県大会で見せた大谷翔平選手の球速160キロ!
アマチュア史上初めての記録を成し遂げた大谷翔平選手。圧巻です。
7回を3安打1失点13奪三振でコールド勝ちをします。そして、決勝の盛岡大学付属高等学校との対戦でも15奪三振と好投。
甲子園出場夢は叶いませんでしたが、大谷選手個人では素晴らしい成績を残しています。
すでにオーラが違う!
⑩第25回AAA世界野球選手権大会では12三振・最速155km/hを記録
大谷翔平選手は、高校3年生の8月~9月、トップクラスの高校球児が集まる「第25回AAA世界野球選手権大会」に日本代表として出場します。
大谷選手は、5位、6位決定戦での大事な試合で大韓民国戦では先発を任され、主に4番指名打者で起用されました。
韓国戦では、7回を投げて2失点12奪三振で最速の球速155キロを記録し、序盤から150キロ越えを連発しますが、ボークや四死球などで2点を失い、試合も3対0で破れ試合には負けてしまいます。
~大会成績~
- 優勝:アメリカ
- 準優勝:カナダ
- 3位:台湾
- 4位:コロンビア
- 5位:韓国
- 6位:日本
スポンサーリンク私は,先日韓国で開催されたU-18世界野球選手権大会に参加してきました。
引用元:大谷翔平選手の言葉.花巻東高等学校旧ホームページ
その私は,今年の夏の甲子園大会には出場できませんでしたが,総勢20人の代表メンバーとともに世界の野球に触れることができ,とても良い経験をすることができました。
メンバーの中には,夏の甲子園で活躍した選手も多く,世界の野球と戦う以上にこのレベルの高いメンバーと練習して戦えたことが,自分の中でもとても良い経験となりました。
今回の大会で,とても印象に残っていることは,第二次ラウンド2回戦目の一敗という状況で迎えた韓国戦でした。この試合では,負ければメダルの可能性が無くなるという状況であり,しかも相手が韓国とあって選手もスタッフも絶対に負けられないという中で闘いました。
応援は,完全に韓国だけという状況でしたが,その中で粘り抜いて勝てたということは自分の中でもとても嬉しく,印象に残っています。
残念ながら三回戦目のアメリカ戦には,自分たちのリズムで野球ができず負けてしまいましたが,日本の野球や高校野球のフェアプレーの精神など,改めて素晴らしいなと実感しました。
これからもこの世界大会で経験したことを生かして,上のレベルで活躍できるよう努力していきたいたいと思いますし,また日の丸を背負って闘えるよう練習していきたいと思います。
⑪高校2年生からすでにプロ「二刀流」を目指していた!
高校2年の時、夏の岩手県大会直前に骨端線損傷という怪我をした。
大谷選手は、左足を痛がる素振りを見せ、バックネット裏の小部屋にそのまま消えた。
その年の夏の甲子園に出場したときまでは左足の痛みは肉離れによるものだと思われていました。
それも実際、病院では肉離れと診断されていて、入学時にあった骨端線の痛みだと本人も含めて、誰も気が付かなかったのです。
違和感から、甲子園が終わって病院で詳しい検査をすると、誰もが想像していなかった重い怪我だったことが分かったのです。
僕自身大きな怪我は初めてでしたし、夏の大会直前ということもあって、やっぱり悔しかったですね。
高校時代、大谷選手の監督をしていた佐々木監督は、「大谷には申し訳ないことをした」といまだに悔やむそうです。
大谷翔平選手も決して順風満帆に過ごしてきたわけではなく、この悔しさをバネに「二刀流」を志すきっかけに。
⑫高校のドラフトではすでにメジャーリーグからのスカウトが来ていた!
すでに大谷選手にはドラフト前の段階で、メジャーリーグの「レッドソックス」「レンジャーズ」「ドジャース」などの球団からスカウトの話があり、面談もしています。
大谷翔平選手は高校卒業後、すぐにメジャーリーグに挑戦しようと心に決めていたのです。
そして、大谷選手は日本プロ野球には行かないことを宣言します。
しかし、現在の大谷選手の恩師である日本ハムファイターズの栗山監督などの首脳陣たちが「申し訳ないけど大谷くんを指名する」とドラフト1位指名をします。もちろん気持ちは知ったうえでのこと。
大谷選手は驚くも入団を断固として断りますが、日本ハムの栗山監督の熱い気持ちを受けて日本ハムファイターズ入団を決意したそうです。
栗山監督がいなかったら、今の「世界の二刀流」としての大谷翔平選手はいなかったかもしれません。
大谷翔平選手の憧れである「ダルビッシュ有選手の背番号11」を引き継ぎ、メジャーへ行く前の2017年まで日本ハムファイターズで活躍することになりました。
今ではプロ10年目で、その憧れのダルビッシュ有選手とWBCという同じ舞台で戦っているのですからすごいですよね!
スポンサーリンクまとめ
以上、【画像54枚】大谷翔平の幼少期の伝説エピソード6選!子供の頃から凄かった!学生時代の伝説的記録12選に迫る!と題してお届けしました。
大谷翔平選手は、小学生の頃から周りから一目置かれる存在で、中学、高校とさらに努力を重ねて右肩上がりで成長してきたことが分かりました。
また、周りの環境に恵まれてきたことも大谷翔平選手の才能の1つですね!
お読みいただきありがとうございました。
他にも野球関連の人物についてはこちらを合わせてご覧ください