佐々木郎希選手が生まれたのは、岩手県の陸前高田市です。
- 生年月日:2001年11月3日(2023年時点で22歳)
- 出身:岩手県陸前高田市
- 出身高校:大船渡高校
- 身長:192㎝
- 体重:92㎏
- ドラフト:2019年1位
- 所属:千葉ロッテマリーンズ
- ポジション:投手
- 投打:右投右打
日本のプロ野球界は、佐々木郎希選手や大谷翔平選手の話題で染まっていますね!
佐々木郎希選手が子供の頃、2011年の東日本大震災では当時9歳のときに被災し、津波被害で父親と祖父母を亡くす不幸を経験し、9歳でまだ幼かったにも関わらず、一切弱音を吐くことがなかったという佐々木郎希選手。
辛い経験をし、そのつらい時期に自ら野球に打ち込むことで奮起させていたのではないかと感じます。
そして高校時代(岩手県立大船渡高校)に、「令和の怪物」として注目を集め、千葉ロッテマリーンズに入団して約2年で(内1年は体を鍛えるための期間)野球界を震え上がらせています。
佐々木郎希選手は、すごい選手なのに優しくて、まだどこかで少年みたいな、すごく応援したくなる選手ですよね!
この記事は、佐々木郎希選手が幼少期、子供の頃~高校時代をどのように過ごしてきて、どんな子だったのか調査したので、伝説エピソードとしてまとめて紹介していきます。
スポンサーリンク佐々木郎希の幼少期から高校時代の伝説エピソード8選!
- 小学校:陸前高田市立高田小学校→大船渡市立猪川小学校へ転向
- 中学校:大船渡市立第一中学校
- 高校:大船渡高校
2001年11月3日、岩手県陸前高田市で生まれた佐々木郎希選手は、3人兄弟の真ん中としてすくすく成長します。
佐々木郎希選手の幼少期~高校時代の伝説エピソード8選いってみよう~!
伝説①幼少期から心優しくて負けず嫌いで活発な少年だった
幼少期の顔写真を見ても分かるように、優しい雰囲気が出ていますよね。幼少期は心優しく友達思いで、周りの人たちから可愛がられる子だったそうです。
子供の頃からイタズラ好きで外で遊ぶのが大好きな活発な少年だったそうです。
岩手県からは、佐々木郎希選手や大谷翔平選手のような規格外な選手が誕生していますが、岩手県の土地は広大で食材にも恵まれ、山や海があり、自然と子供の頃から鍛えられる環境が揃っていると考えられます。
スポンサーリンク小学3年の頃に野球を始めたきっかけは家族の影響
子供の頃から、家族が野球好きな影響を受け、佐々木郎希選手も野球が大好きだったそうです。
まだ野球を始める前の7歳だった頃WBCを見ていた佐々木郎希選手は、その時のことをコメントしています。
2009年のWBCをテレビで見ていました。決勝で、イチローさんが勝ち越しのタイムリーを打ったのがすごく印象的でした。それを見て、イチローさんから野球という憧れをもらったし、僕自身もそうやって子供たちに野球の魅力を伝えていきたいと思います。
そして、兄の影響で本格的に小学3年生から野球を始め、兄と同じく「高田野球スポーツ少年団」に入団します。
子供の頃はコントロールが悪かったそうです。それもそのはず。震災で小学校の時にはまともにグラウンドで練習していなかったのです。
2010年、現在の佐々木郎希選手が配属している千葉ロッテマリーンズが日本1になった試合に、家族と一緒に千葉マリンスタジアムまで観戦しに来ていたそうです。
友達と日が暮れるまで野球をしていた小学生の頃が人生で一番楽しかった!
子供の頃に突然襲ってきた「東日本大震災」で被災そして避難生活
2011年3月11日に起こった東日本大震災。佐々木郎希選手は自らも被災者で父と祖父母を亡くされています。
陸前高田市の家は津波で流され、老人ホームで母と兄弟と共に避難生活を送ります。
翌年の2012年に親族がいる大船渡市に移り住みました。
そして、大船渡で「猪川野球クラブ」という軟式の少年野球に入団します。
震災を風化させたくない。これからは発信していかなければならないと感じた、10年前の僕はたくさんの人から支えられ、勇気や希望をもらいながら頑張ることしかできなかったが、今は違う。勇気や希望を与える立場にある。活躍してそういうことができたら。
引用元:Yahoo!ニュース
佐々木郎希選手は震災と野球についてはこう話しています。
野球をしているときが一番楽しかった。夢中になれる時間があったおかげで辛い時も乗り越えられたし頑張れた。野球をしていて良かった!
大人でも、言葉にすることが難しい震災のこと。それを、子供の頃から乗り越えてきた。そして、次は勇気を与える立場だと話されている佐々木郎希選手。
辛い経験を通して野球に全力で打ち込んできた努力と人間力には感無量です。
心の底から応援していきたい選手です。
スポンサーリンク伝説②2013年小6の時に「リアスリーグ」で千葉のマウンドに立っていた
リアスリーグとは・・・実行委員会代表山田康生氏が、運動場を失った東北沿岸被災地の野球子供たちを球場に呼んで、グラウンドをとにかく踏みしめる経験をさせたいというか想いから、協力を依頼して2013年から始まった夢プロジェクトです。佐々木郎希選手が配属しているチームである、千葉ロッテマリーンズの本拠地ZOZOマリンスタジアム(旧QVCマリンフィールド)で行われています。
その「リアスリーグ」2013年の初代優勝メンバーに、佐々木郎希選手の名前がありました。
決勝はショートで出場し、登板することはなかったが、その後に行われた千葉の少年野球チームとの交流戦ではマウンドに上がりました。
メガネをかけていて、どこにでもいるようなピュアなイメージの子だった。一人だけなにか内に秘めている感じで、繊細だなという印象でした。がつがつのスポーツ少年には見えなかったね。それでも僕ら実行委員会の中では「あの子いいよね」となっていました。
2019年、千葉ロッテマリーンズからドラフト1位指名を受け、少し緊張しながら初対面の井口監督に大船渡高校であいさつを受け、今後について20分程会談したそうです。
小学校6年生の時に、すでにロッテの本拠地ZOZOマリンスタジアムにてマウンドに立っていた佐々木郎希選手は、ロッテに配属したことは運命と言える。
佐々木郎希選手は、千葉のマウンドで東北の子供たちの夢を背負ってさらに夢へと歩みを続けます。
郎希くんは、僕らの夢を叶えてくれて夢は現実になった。野球ができる環境がなくても夢は叶うということを示してくれた。ありがとうと言いたい。本当によく頑張ってここまで来たんだなって思います。本人のやりたいという気持ち、1番は野球への思いがあったからこそ。イメージはすごく力になるということです。被災地の子どもたちがプロの選手を目指す、目指せるという夢を背負ってこれからも活躍して欲しいです。
伝説③中学時代の成績はなんと球速MAX141キロ!
大船渡市立第一中学校に進学後に軟式野球部に入部します。実力はすぐに認められ、2年生になり秋の新人戦からエースに抜擢。
しかし、股関節の怪我や痛みが続き、当初地元の病院では「身体が硬いだけ」と診断されていましたが納得いかなかった佐々木郎希選手の指導者が花巻東高校の佐々木洋監督に相談。
中学3年生になる前の2016年春に、大谷翔平選手が通っていたという青森県八戸市の病院を紹介してもらい、腰の疲労骨折と診断され、約半年間のリハビリ生活を送ります。
そして、リハビリを終えて秋に参加した「オール気仙」では「第16回県中学生KWB野球選手権」で9年ぶりの優勝を達成します。
「第11回U15全国KWB野球秋季大会」で野球連盟の優秀選手賞を受賞!
中学3年生の頃、東北大会でも準優勝し、県選抜にも選出。そして「第11回U15全国KWB野球秋季大会」に出場を果たします。
この全国大会では初戦敗退したものの、1回戦で2番手投手としてマウンドに立ち3回3被安打無失点と好投し、当時の自己最速となる球速141 キロを記録しました。
この功績が認められ、県KWB野球連盟と県中学生野球連盟の優秀選手賞を受賞します。
伝説④地元の仲間たちと甲子園を目指すため花巻東や大阪桐蔭などのオファーを断った
中学時代の成績から見て、花巻東や大阪桐蔭、盛岡大付属など数多くの野球の名門校から声がかかっていました。
岩手県まで監督が足を運んで、何度も佐々木郎希選手を学校に入れようと説得しようとしていたという話もあります。
佐々木郎希選手が地元の「大船渡高校」を選んだ理由は2つあります。
- 震災を経験したからこそ岩手を地元メンバーで盛り上げたかった
- 幼少期からの地元の仲間と共に甲子園に行きたかった
東日本大震災を経験したからこそ、地元を野球で盛り上げたいという気持ちは佐々木郎希選手の中でとても大きなものでした。
震災で辛い思いをした経験を野球や周りのサポートを受けたからこその気持ちですね。
また、佐々木朗希さんの呼びかけで中学時代に「第11回U15全国KWB野球秋季大会」を共にした、バッテリーを組んだ及川恵介選手、キャプテンを務めた千葉宗幸選手など、当時の「オール気仙」に出場したメンバーが大船渡高校に10名も集まったのです。
甲子園に行けたのに行くことができなかった…2019年に話題になった佐々木郎希選手登板回避問題については後ほど解説します。
どんなに名門校からオファーを受けたとしても、佐々木郎希選手にとって譲れない大きな思いがあったんですね。
スポンサーリンク伝説⑤高校時代は1年生で球速147キロをマーク!
佐々木郎希選手は、地元岩手県の高校「大船渡高校」(偏差値は約52)に進学。
大船渡高校は、過去の約35年前1984年に春夏で甲子園に出場しています。
時に第56回春の高校センバツ野球では、全国的に無名ながらベスト4に進出。
佐々木郎希選手が入部する前までは、岩手県予選では3回戦~準々決勝という成績でした。
そして、2017年4月に佐々木郎希さんが入学し数々の伝説を残します。
- 高1:球速147キロで注目を集める
- 高2:2年生では最速の157キロを記録
- 高3:大谷翔平選手越えの歴代高校最速記録の球速163キロをマーク
「令和の怪物」と呼ばれる記録が誕生することになります。
中学時代から注目を集めていた佐々木郎希選手は、中学の時に怪我で疲労骨折が判明したことから、高校に入っても体がまだ成長段階ということもあり試合への出場は控えられていました。
そして、2017年7月の岩手県予選の2回戦で盛岡北高校戦で初登板を迎えます。
佐々木郎希選手の初登板の成績は、4ー3の8回2アウト2塁、3塁!リリーフとして一打逆転の状況で登場し、3三振の無安打無失点!
佐々木郎希選手の投球は全て球速140キロを超え、9回には最高速の球速147キロを記録します。
岩手県予選3回戦で敗退してしまいますが、「令和の怪物」として素晴らしい高校時代での初登板デビューを飾りました。
伝説⑥高校時代は2年生で最速157キロをマーク!
佐々木郎希選手は高校2年で背番号1のエースとしてさらに飛躍し、「岩手にものすごい化け物がいる!」と話題になり名を上げていきます。
そして、夏の甲子園出場をかけた、岩手県大会初戦・盛岡3戦では最速の球速154キロを叩き出します。
高校2年ですでに、試合があるごとにプロ野球球団のスカウトマンが数多く駆け付けたそうですよ!
そして2018年9月岩手県秋季大会1回戦で、またもや盛岡第三高校と対戦!
登板した佐々木郎希選手は、初回5球目のストレートで自己最高球速157キロを叩き出し、9回を6安打11奪三振で完封勝利しました。
球速157キロは歴史上で高校2年生の最速タイとなる記録です!すごすぎてヤバいですよね!高校時代は2年生からもう怪物だったのか!
伝説⑦高校時代は3年生で高校生歴代最速の球速163キロ越えを叩き出す!
高校3年生に上がった佐々木朗希選手は、「高校BIG4」と呼ばれるまでに大きくなっていました。
「高校BIG4」
そして、「第29回WBSCU-18ベースボールワールドカップ」に高校生日本代表として、20人の中に選出されます。
そして、韓国で開催される「第29回WBSCU-18ベースボールワールドカップ」に向け、3日間にわたる研修合宿での紅白戦。
やはりこの中でも1番注目を受けていたのが佐々木郎希選手!2試合目の先発の登板から豪速球を連発します。
そして3球目にはついに高校生の過去最速記録である球速163キロを叩き出し(NPB球団スカウト測定による)数多く駆け付けた日本・アメリカプロ球団スカウト陣と報道陣の度肝を抜きました!
球速163キロを記録してからも勢いは続き、チェンジアップやスライダーなどの変化球も加えながら、6者連続三振を奪って2イニングを完璧に抑えました。
これには周囲も驚きを隠せず、
見たことのない切れとスピードだった!
スケールが大きい!群を抜いている存在だ!
将来期待でしかない佐々木郎希選手を自分たちのプロ球団にスカウトしたいチームはこの段階でどれだけ増えただろうか。
現在も大谷翔平選手の球速160キロを超え、佐々木郎希選手が叩き出した球速163キロは未だ破られていない記録です。
この高校時代に出した規格外の大記録から、佐々木朗希選手が「令和の怪物」と呼ばれることとなります。
スポンサーリンク2019年全国高校野球選手権岩手大会決勝戦での登板回避問題
2019年高校3年生の7月25日に行われた第101回全国高校野球選手権岩手大会決勝戦。
あと1勝で甲子園だった大事な試合で、翌日の競合である花巻東高校との決勝では当時の国保陽平監督が佐々木郎希選手をピッチャーとして最後までマウンドに立たせることが無くチームも花巻東高校に2-12で敗れ、大船渡高校はあと一歩のところで甲子園出場を逃してしまう。
佐々木が3年間で一番壊れる可能性があると思った。なので故障を防ぐためですから。私が判断しました。
このコメントに対して、2日間で大船渡高校に約250件の苦情が殺到してしまったそうです。
もし佐々木郎希選手が出場していたら、大船渡高校は35年ぶりに甲子園に出場して監督もチームも称えられていたのに…!?でも監督が佐々木郎希くんのことを思った苦渋の判断だったんだね!
一方、当時は選手の「投げ過ぎ問題」に目を向けられていた時期。学童の野球の試合では球数制限が適用されるなどがありました。
選手といえど将来が期待されている大切な子供ですので、国保陽平監督に託された判断はとても難しかったのではないでしょうか。
佐々木郎希選手の登板回避問題については芸能界からファンの間で賛否両論が巻き起こり、社会現象となったのです。
甲子園の名将とも言われる高校野球の監督・元監督らからはこのようなコメントが。
- 「回避にびっくりだ」
- 「理解に苦しむ。一番大事な決勝。」
- 「苦渋の決断をした勇気は認めなくては」
- 「佐々木君が出ていたら勝っていたかもしれない」
- 「甲子園は聖地で、成長の大きな機会でもあるから、自分なら決勝から逆算して投げられるように県大会全体でやりくりをする。無理はさせない前提だが、その上で何とか甲子園に連れて行ってやろうとした。」
高校の有名な名監督たちからも、佐々木郎希選手を起用するべきだったという声が多数寄せられました。
大船渡高校の國保監督と佐々木郎希投手の勇気に、賛辞を贈りたいと思います。
また、サッカー界でも解説者の前園真聖さんや、日本代表の長友佑都選手が、佐々木郎希選手の将来を考えた監督の決断を支持するコメントを残しました。
佐々木郎希選手自身はこの騒動について、
高校野球をやっていたら、試合に出たい。投げたい気持ちはありました。監督の判断なので仕方がないです。
この件に関しては、佐々木郎希選手は悔しい気持ちはあると思います。
この先もずっと忘れることはできないことだと思いますが、後に笑い話になるよう、さらに偉業を成し遂げて行って欲しいですね!
伝説⑧佐々木朗希選手の高校時代からすでに身長がプロ並み
佐々木朗希選手の高校時代身長は、入学当初すでに186cm前後だったそうです。高校3年では189㎝だったそうです。
高校1年生でこの高身長はすごい!周りの学生よりもずば抜けて高かったでしょうね!
また同じ岩手県出身の怪物、大谷翔平選手と身長を比較してみましたが同じ体型な感じがしますね!佐々木郎希選手は顔が幼くて可愛いのでもう少し小さいのかなというイメージがありましたが、比較して分かるようにがっちりとした体格です。
ロッテに入団してからまだ身長が2㎝伸びていたことにびっくりです。
身長は大体の人が高校生のうちに止まるよ!
上記でも紹介しましたが、中学時代に腰の故障や成長痛で痛みを感じて悩まされた後、病院で詳しく検査を受け、疲労骨折が判明します。
骨と骨の間のにある軟骨の骨端線が残っていることが発覚し、まだ成長段階にあると分かった高校時代の佐々木郎希選手はまだまだ身長が伸びている段階だったのです。
急激に伸びた身長に、体がついていけてなかった可能性がありますね。
プロ入りしてから身長が伸びたのはまだ成長段階だったからなのですね!
子供の頃から令和の怪物と呼ばれるまでの佐々木郎希の異次元の記録とは?
年 | 年齢 | 所属 | 防御率 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 試合 | 完投 | 完封 | ホールド | 勝率 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | その他 | 年俸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2020 | 19 | ロッテ | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | 1600万 | |
2021 | 20 | ロッテ | 2.27 | 3 | 2 | 0 | 11 | 0 | 0 | 0 | .600 | 63 1/3 | 51 | 5 | 16 | 0 | 68 | 3 | 24 | 16 | 1600万 | |
2022 | 21 | ロッテ | 20.2 | 9 | 4 | 0 | 20 | 2 | 1 | 0 | .692 | 129 1/3 | 80 | 7 | 23 | 7 | 173 | 4 | 31 | 29 | 完全試合 | 3000万 |
2023 | 22 | ロッテ | WBC | 8000万 |
※プロに入ってからの佐々木郎希選手の記録です。随時更新していきます。
①日本新記録!13連続三振で1試合19奪三振からの「完全試合」を成し遂げた
2022年4月10日、対オリックスバッファローズとの対戦で実に28年ぶりプロ史上16人目の「完全試合」を達成しました。
完全試合とは・・・ランナーを塁に1人も出さずに9回まで投げ切ること。
この試合で完全試合での佐々木郎希記録は、
- 13者連続奪三振日本新記録
- 1試合19奪三振日本記録タイ(野田浩司が持つプロ野球記録に並ぶ)
画像をご覧の通り、1950年~歴代の完全試合達成者はたったの16名。佐々木郎希選手の前は1994年なんだ!成し遂げることがどんなに難しいことか分かりますね。
②伝説!2回連続で「完全試合」目前に監督の意思で9回で降板に批判殺到!
2022年4月17日ZOZOマリンスタジアムで日本ハムと対戦した際、当時20歳だった佐々木郎希選手は、8回まで一人の走者も許さない14奪三振の2試合連続の完全試合を継続していました。
そして、8回の裏のロッテの攻撃が終わると、ベンチを出て井口監督が大記録を更新中の佐々木郎希選手の降板を告げました。
2万9426人で埋まったZOZOマリンスタジアムはざわめきました。
ロッテの井口監督は、将来を考えた上で限界だと判断し、佐々木郎希選手を102球で交代させました。
試合は延長10回、後続のピッチャー西野勇士が打たれ、日本ハムに1-0で敗戦する形で幕を下ろしました。
色々なことを加味しながら、今日は100球弱だと思っていた。
できることなら我々も最後まで見たかったし、ファンの方も見たかったと思います。
7回が終わった時点で朗希がちょっとへたばりつつあったので、何とか8回までと思っていました。
先々のことを考えるとあそこが限界だったのかなと。
朗希が1年間、ローテーションでしっかり回ることが大事なんです。
井口監督は、もしロッテがリードしていたとしても8回で代わっていたのですね。
佐々木郎希選手は試合後に、テレビカメラが入ったインタビューにこう答えています。
途中疲れている部分もありましたし、監督の判断なので、納得する形で降りました。
佐々木郎希選手の「2試合連続完全試合」を見たかったですね!漫画の世界でもあり得ないことですからね。
まだまだこれからの選手ですので、また見れるときが来る可能性は0ではありません!
③「完全試合で」2022年11月最年少で2つのギネス記録に認定!
千葉ロッテマリーンズは2022年4月10日、オリックス戦で「完全試合」を成し遂げた佐々木郎希選手はギネス記録に2つ認定されました。
- 松川とのバッテリー合計年齢が当時38歳330日で→プロ野球における完全試合を達成した投手と捕手の最年少
- この試合での13者連続奪三振→プロ野球における投手の連続奪三振最多数
今後も、色々な記録に挑戦できる投手になれるよう頑張っていきたい!
④高校時代の球速から見てこの先プロで球速170キロも夢ではない!?
千葉ロッテマリーンズの佐々木郎希選手の球速平均は160キロで、尚且つ抜群のコントロール力があります。
フォークも合わせて、変化球も150キロに迫る、異次元の投球を持つ天才的才能を持つ唯一無二の存在です。
高校時代から佐々木郎希選手に注目して見ていますが、間違いなく将来は大リーグで活躍できる逸材だと思っています。自分の投球スタイルを変える必要はないし、郎希選手に足りないのは経験だけです。
あれだけ速い球を投げられるのは大きな武器ですし、球速170キロも出る可能性が十分にある。
ロッテのエースではなく日本球界のエースを目指してほしいですね。
さらにこのままプロで順調に成長し続けたなら、最速170kmも夢ではないという専門家もいるぐらいです。
佐々木郎希選手はこの先の経験も全てが大きな糧になるし、投げ合うことで苦い経験も含めて多くを学んでいきます。
プライドを持った打者が、佐々木郎希選手に立ち向かってくるでしょう。
令和を代表するBIG選手は、大谷翔平選手か佐々木郎希選手かと話題になっていますね。
この先、伸びしろしかない佐々木郎希選手の球速170キロを見ることができれば、今後100年以上またはそれ以上越えてくる選手はいない大記録となるでしょう。
WBCでの3.11の日に佐々木郎希望選手登板に栗山監督は?
2023年3.11。東日本大震災発生から12年となるこの日、WBC1次リーグB組、東京ドームでチェコ-日本。
試合前の会見に臨んだ日本代表の栗山英樹監督は、岩手県陸前高田市出身の佐々木朗希投手を先発に起用した理由を明かしました。
大震災というのは時間がたったから消えるということは絶対にないですし、それをわれわれにできることはないけれど、一瞬でも元気になったり笑ったりしてほしいという思いはもちろんはあるので。そういう日に先発するというのは、野球の神様が朗希に頑張れというメッセージを送っていると僕は思っている。
引用元:Yahoo!ニュース
佐々木郎希選手は、当時まだ9歳の小学3年生の頃に自身と家族が被災。父・功太さん(享年37)と祖父母を失い悲しみに暮れた。
この日の練習前には全員で輪になり、黙とうを捧げた。
一球一球、魂を込めている姿が感じられ、ボールを投げているというより思いを届けているように見えた。
引用元:Yahoo!ニュース
東日本の人々の希望である佐々木郎希選手。野球の神様は必ず佐々木郎希さんの味方であると、そう信じています。
佐々木郎希選手はこれからもっと誰も成し遂げたことがない大きな記録を残していくでしょう。
スポンサーリンクまとめ
以上、【画像41枚】佐々木郎希の幼少期から高校時代の伝説エピソード8選!子供の頃から令和の怪物と呼ばれるまでの異次元の記録と生い立ちも調査!と題してお届けしました。
佐々木郎希選手は、小学3年生の頃に東日本大震災で被災してからまともな練習場所がない中でプロになり、そして伝説となる輝かしい記録を更新しています。
東日本代表として、子供たちに夢と希望を与える選手としてこれからも応援していきたいですね!
お読みいただきありがとうございました。
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