- 小学校:福井市立麻生津小学校
- 中学校:福井市立足羽中学校
- 高校:敦賀気比高校
- 大学:青山学院大学
- オリックス
- レッドソックス
吉田正尚選手は、幼少期の5歳から野球を始めています。
誰よりも遠くに飛ばしたい!
この強い思いから、幼少期は無我夢中で納得するまでバットを振っていたと言います。
また、14年ぶりに世界一の王座奪還した侍ジャパンで吉田正尚選手は素晴らしい活躍を見せ話題に!日本熱狂の渦に巻き込みました!
WBCでの吉田正尚選手の成績
WBCでの準決勝での対メキシコでドタンバで奇跡の同点スリーランホームランという大活躍を見せ、侍魂のフルスイングで侍ジャパンを世界一に導いた吉田正尚選手の若い頃、幼少期や学生時代~高校時代をどのように過ごしてきたのか紹介していきます。
スポンサーリンク吉田正尚の幼少期!子供の頃から異次元の伝説的記録だった!
1993年7月15日福井県福井市で2人兄弟の次男として生まれました。
吉田正尚選手には3歳上のお兄さんがいます!
幼少期、なんと5歳から野球を始めたという吉田正尚選手。
誰よりも遠くへ飛ばしたいという思いから、ノルマを設けるという考え方ではなく純粋に野球をやりたいという気持ちから自分が納得するまで練習していたそうです。
吉田正尚選手の子供の頃の野球への想いについて調査したので見ていきましょう。
幼少期から福井県の広い実家でのびのびと育った吉田正尚選手
福井県にある吉田正尚選手の実家は昔ながらの家で土地がとても広いですね。
庭の木にネットを張って、ティー打撃をしたり、お父さんからボールを上げてもらったりと、毎日ひたすら打ち込んでいたそうです。
僕は「もっと打ちたい」「まだうちたい」と我がままを言っていたそうです。
今では台風が来た時に備えた防災のために木を切ったそうで、現在は無くなってしまっているようです。
地元のバッティングセンターでホームラン賞に輝く
ティー打撃練習が終わると、その後近所のバッティングセンターへ行きさらに振り込んでいたそうです。
通っていた地元のバッティングセンターで、小学生の頃からホームラン賞を取っていたなんてすごいですね!
スポンサーリンク野球を始めたきっかけは3つ上の兄の影響を受けたから
僕の一番古い野球の記憶をたどると、幼稚園児まで、さかのぼります。
3歳上のお兄さんが野球をしていた影響で、幼稚園児の頃からおもちゃのカラーボール打っていたそうです。
よくきっかけを聞かれるのですが、小学校1年から野球を始めたんですけれど、その時に買ってもらったバットが1kgくらいある重たいバットだったんです。当時は何も考えずに『重たいなぁ』と感じながら、それでも『強く振りたい』と思って、がむしゃらに振っていたんですけれど、それで力強いスイングができるようになったのかなって思います。
家の中にベースを作ってお兄さんと試合をしていたのが最初の記憶だそうで、きっかけというより子供の頃から自然とお兄さんの影響で野球をしていたんですね!
そして、お兄さんの影響で小学生に入学して間もない6歳の時に「麻生津ヤンキース」に入団します。
子供の頃から、バッティングが大好きだったという吉田正尚選手。
ただ、「自分がやりたい!」その思いで必死に練習していたそうです。
本当に純粋に野球が好きな少年だったようですね。
小学生時代のポジションはキャッチャー!
吉田正尚選手は、自然の流れでお兄さんと同じ「麻生津ヤンキース」少年野球チームに入団しました。
ポジションはキャッチャーだったんです!
打つことはもちろん、走塁も、守備も、野球の全てが楽しかったそうです。
小学生の頃は、ポジションはキャッチャーをしていましたが色んなポジションも守っていました。
兄貴はピッチャーで両投げだったんです。
吉田正尚選手が野球を楽しんでやっていたのは、お兄さんの影響が大きかったんですね!
吉田正尚選手の母校「福井市立麻生津小学校」
小学生時代は野球漬けの毎日で休みは月曜日だけの過酷な日々だった
子供の頃は、お兄さんと共に毎日野球漬けだった吉田正尚選手。
「麻生津ヤンキース」の練習は、火曜日から日曜日まであり、休みは1週間の中で月曜日だけ。
その休みも、友達と野球をして遊んでいたそうです!
学校の休み時間でも、ほうきで卓球のピンポン球を打ったり、いつも遊びの中心に野球がありました。
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小6ですでにバッティングが完成していた吉田正尚!
吉田正尚選手が中学生時代に所属していたチーム「鯖江ボーイズ」のチーム代表であった現在監督の佐々木昭弘さんがはじめて会った当時の吉田正尚選手のことを「モノが違った」と振り返っています。
吉田はこれまでの野球人生の中で「挫折」なんて味わったことないんじゃないかな?
「挫折なんて味わったことがない」と聞くと、そんな人間いるのか?と思ってしまいますが…。
長年野球をやっていると、どっかで壁にぶち当たるのが普通です。
中学→高校→大学→プロと進めば、周りの人間のレベルの高さに戸惑うことも出てくる。でも、吉田にはそういう印象が全くないんです。
もちろん、その裏には彼の努力があったのは間違いないと思うんですけどね!
このような印象を与える吉田正尚選手は、子供の頃からブレない精神をもっていたに違いありません。
「鯖江ボーイズ」は、2015年に日本一に輝いた名門中の名門チームで、チームの中からこれまでにも合計10名もプロに輩出しています。
選手一人ひとり、とてもレベルの高いチームでありプロになる人材を指導してきた佐々木監督から見て、中学校時代の吉田正尚選手は「モノが違った」といいます。
初めて見たのは彼が小学6年生のときです!
チームの練習体験会に参加したんですけど、その時点で周囲とのレベルの差は明らかでした。とにかくスイングがきれいで今も豪快なスイングが代名詞ですけど、当時からバッティングの印象はほとんど変わっていません。つまり、小6の時点でほぼ完成されていたということですよね。
大リーガーで活躍している現在の吉田正尚選手と、小学生時代とでバッティングの印象がほとんど変わていないって子供の頃どんな少年だったんだよ!
「当時はどんな指導をしていたのか?」と質問されることがあるんですけど、恥ずかしい話、吉田に打撃について指導したことなんて一つもないんです。
吉田正尚選手が小学6年生の時点で今のフォームが完成していたということは、周囲の同年代の子供より練習を自ら楽しんで集中してやっていたことに間違いないですし、何より先に自分がどうなりたいかという自分の夢に真っすぐだったんだと思います。
「将来の夢は大リーガー」と卒業文集に誓った子供の頃
小学校の卒業文集に、「将来の夢は大リーガーです」と書かれています!
お兄ちゃんの野球をいつも見に行ってやっていましたって可愛い(笑)
吉田正尚選手の卒業文集の一部を見ただけで、負けず嫌いで努力を重ねてきたことが分かりますね。
子供の頃からすごくまっすぐで真面目で素直な性格だったんだなと感じます。
卒業文集で「プロ野球選手になる」ではなく、「大リーガーになる」と書くのは、相当強い意志と本気の夢があったからだと思います。
子供の頃から、吉田正尚選手は将来自分がどうなりたいのか明確だったってことですよね。
今それが現実になっているのですから本当にすごいとしか言いようがありません。
スポンサーリンクすでに高校生の考え方を持っていた中学生時代の吉田正尚の伝説的記録!
中学校は地元の福井市足羽中学校へ進学。中学時代の身長は高いとは言えない160㎝台で、名門チーム「鯖江ボーイズ」に入団しました。
吉田正尚選手は中学生の時点ですでに高校生のような考え方を持って野球をやっているのは指導者から見ても分かったそうです。
私は吉田に「全力で打て、全力で走れ」しか言っていません。
中学1年生の時は、ひじの故障で試合には出ていなかった吉田正尚選手。
怪我が完治してプレーが可能になると、リハビリ明けも全く関係なく吉田正尚選手は一気に頭角を現します。
このまま大きく育ってくれればそれでいい!
- 技術面では全く問題ない
- 身長が低い
- 180センチくらいまで伸びれば間違いなくプロに行く
と、言われていた吉田正尚選手は、結果としてそこまで身長が伸びることはありませんでした。
実際に指導をしていた佐々木監督も、「中学生時代から凄かった」と感じていたようで、「身長さえあればプロへ行く」と確信していたようですね。
しかし、高校→大学→プロとしっかり結果を残しているので、結果として吉田正尚選手身長は全く関係がなかったのです。
監督は今も改めて『すごい選手だったんだな』と感じていると言います。
そんな吉田正尚選手の中学生時代を見ていきましょう。
中学2年でライトへの場外ホームラン連発で市に特注ネットを用意させたという伝説!
中学2年生になると、日を追うごとに打球が伸びていきました。
2年生になると、学年の中で唯一のレギュラーに!3年生の中に1人混ざって、打順も5番を打っていたそうです。
吉田正尚選手の当時の怪物伝説エピソード
「鯖江ボーイズ」の練習グラウンドは福井市が運営している西山公園野球場です。
両翼は91mあり、ライト側には道路を挟んで住宅が並んでいます。
91mあるってことは中学生の練習場所にしては決して狭くないんです!
中学生だった吉田正尚選手は打撃練習で場外弾を連発します!
道路を走る車や住宅に打球が当たるとマズイので、打撃練習中は保護者たちみんながライト後方の道路に立ち並んでボールを拾っていたそうです(笑)
吉田が打つときは車が通るたびに練習を止めていました。そんなある日、近所の人からから苦情が入ったのかもしれませんが、福井市がライト側に防球ネットを設営してくれたのです。
間違いなく吉田が打球を飛ばし過ぎるので建ったんだろうなとみんな言っています。
だから今でも、あの防球ネットは伝説のように『吉田ネット』と呼ばれているんです!
まだ中学生だった吉田正尚選手が市までを動かしたなんてびっくりです!
この頃から身長が160㎝という小柄な体格から驚くほどの飛距離と長打力に注目され、数々の強豪高校の監督から注目され始めます。
そして、吉田正尚選手自身も進学を希望していた敦賀気比高等学校の東哲平監督からは、
ポンポンと面白いように飛ばす子がいたんですよ。
体は小さいのに……何なん?って、最初はビックリしましたね。
初めて吉田正尚選手はを見た時にびっくりしたと言います。
そして吉田正尚選手は、
1年ですぐに4番を打つ準備をしておいてくれ!
と、監督直々に声を掛けられ、入学を決意します。
中学2年生の時点で声をかけられていたんだ!
いつも真面目に練習に取り組んでいた吉田正尚選手はサボることはなく、やりたい練習があるときは自分から監督に申し出るなど野球への姿勢が高かったと言います。
スポンサーリンク中学3年生では打撃練習をいつまでもチームメイトに譲らなかった!
中学3年になると、吉田正尚選手は完全にチームの中心となる選手でした。せっかく福井市に立ててもらった防球ネットを越えることも度々あったと言います。
技術はもちろんのこと、野球に対する熱い思いや練習に対する姿勢が凄かったと言います。
外から見ても「同級生に負けるなんて考えられない」と思ってプレーしているのがわかるくらいでしたし、打撃練習でも放っておくと自分が納得するまで打ち続けていた!
いつまでたっても打球練習をチームメートに譲らないので、監督たちから「いつまで打っとるんじゃ!」と叱られていたそうです。
吉田正尚選手を指導してきた佐々木監督は長年の指導歴の中で、吉田の打撃技術は「間違いなくナンバー1」と太鼓判を押しています。
吉田正尚選手の、指導者から叱り飛ばされるまで打ち続ける練習熱心さと「誰にも負けたくない」という負けず嫌いな気質は関係者から見ていても素晴らしいものだったようですね。
中学3年生まで母親に甘えていた吉田正尚選手
吉田正尚選手の意外な側面もあり、福井の実家を出る中学3年生まで、ユニフォームやスパイクなど、自分で整理整頓することは少なく、母親に任せていたそうです。
学校に行くときも、遅刻ギリギリになると車で送迎してもらっていたそうです!
意外とはいっても、中学生だったら普通だとも思いますけどね!でも、遅刻しそうになったら送迎はちょっと羨ましい(笑)
実力から先輩にも恐れられていた高校時代の吉田正尚の伝説的記録!
高校では東監督からすでに注目されていた、敦賀気比高等学校へ入学します。
中学3年生にときから敦賀気比の東監督から「1年ですぐに4番を打つ準備をしておいてくれ」と言われていた通りに、1年生の春から4番ライトとして出場します
「どえらいやつが入ってきた!」これが吉田正尚選手の高校入学の第一印象です。
ロングティーをすると120mは優に飛ばす、ボールを打つっていうよりもボールを潰しにいっているような音がしていたという高校時代の吉田正尚選手を紹介します。
高校1年から先輩たちから恐れられるほど痛烈な当たりを飛ばした伝説!
吉田正尚選手は1年生からすぐに4番ライトでレギュラーになります。
高校1年当時は身長170㎝の体重67キロと周囲の高校球児よりも小柄な体格でした。
2009年6月の高校野球の北信越大会の対桜井高校戦で吉田正尚選手は敦賀気比高入学からわずか2ヵ月の1年生ながら4番打者として出場します。
第1打席ではあっという間に二遊間を抜けていく鋭いセンター前タイムリーヒットを放ち、ヘッドスピードには目を見張るものがありました。
そして、1年生夏の福井県大会では7割を超える打率を残し、甲子園出場を果たします。
吉田正尚選手は1年生から甲子園出場をかけた大会にかなり大きく貢献したんだ!
また、1年生の秋には、北越後大会準決勝、福井県大会優勝を果たすなど、1年生からチームで大活躍を見せます。
1年生から試合を重ねていくうちに、吉田正尚選手のすごさから外だけではなく味方にまで吉田正尚選手の恐怖が広がります。
吉田選手のフリーバッティングが始まると、3年生たちは守備位置から外れて後輩たちにその座を譲り出したと言います。
先輩たちから恐れられるほど痛烈な当たりを飛ばしまくっていた吉田正尚選手!どんなにすごかったの!!!
「吉田正尚は三振しない」は高校1年生の時に完成していた!
吉田正尚選手は、高校1年生の頃から試合を重ねるうちに、コンタクト能力があるのに、三振も少ないことが見えてきました。
あれだけ振れば三振は増えていくはずなのに、追い込まれても違うバッティングができるんです。
吉田選手のパワーは、単に練習したから飛ばせるようになったのではなく、生まれ持った才能だと言われています。
体の回転の速さやスイングのねじれ、振り終わった時に体がウネっているのが分かるのが吉田正尚選手の特徴です。
高校時代は、現在ほど筋肉ムキムキのガッチリした体格ではなく、むしろ細いタイプだったと言います。
同級生から見ると、着替えの時に見るともともとの骨の太さや骨格が生まれ持ってガッチリしているのが分かったそうです。
あれだけの吉田選手のパワーは骨太なところからも来ているわけですね!
吉田正尚選手のファーストゴロで某高校の一塁手が鎖骨を骨折!
高校1年生の時に早速出場した春季県大会で大暴れし、強い打球は面白いように次々と外野手の頭を越え、打率は7割近くまで跳ね上がりました。
そして、あまりの打球の強さで吉田のファーストゴロによって某高校の一塁手が鎖骨を骨折したことがあるのは有名な話です。
スポンサーリンク高校時代2年生ではスラッガーとして脚光を浴びた!
高校2年生の春には選抜で出場し、中村奨吾がチームだった天理高校を相手に3安打を放ち、チームの勝利に貢献しました。
2010年春の選抜で、注目2年生スラッガーとして脚光を浴び、打席でのオーラがありました。
身長は171㎝で体重70㎏と小柄でしたが、実際にはもっと大きく見えそうです。
前年の1年夏の甲子園でも4番を張った左の強打者吉田正尚選手。
天理高校との開幕試合で3安打を放つと、花咲徳栄高校との2回戦で放ったフルスイングでのタイムリー二塁打での打球はあっという間にセンターの頭を越える驚きの弾丸ライナーでした。
2年生である吉田正尚選手のバットがベスト8へ導くも、準々決勝では、後にオリックスでチームメートになる日大三高の山崎福也選手の前に3打数ノーヒットと凡退。
チームも3安打に抑え込まれて0対10で大差で敗退してしまいます。
高校時代通算で「52本塁打」という伝説!
高校3年生では甲子園に出場はできませんでしたが、当時からパンチ力のある打撃が売りで、高校通算本塁打は52本という結果を残しました。
これは2023年3月のWBCで活躍した村上宗隆の高校通算本塁打と同数の52本、大谷翔平は56本などと並びます。
過去に一度も「逆方向に転がせ」といった指導を受けてこなかったことが後の大成に繋がりました。
高校3年生最ラストのシーズンは、対戦相手から勝負を避けられる機会が増え、敬遠されることもしばしば。
高校生なので、そこは打ちたいという気持ちが勝ってしまい、さらに強く振ろうとドツボにはまって調子を崩してしまいます。
本人も思うようなスイングができずにスランプに陥ってしまい、高校のラストは納得のいく打撃ができなかったそうです。
高3でははどちらかというと強打者というかアベレージヒッターというポジションだったと言います。
スカウト陣からは、
守備が上手いわけでも足が速いわけでも肩が強いわけでもない
と、言われていました。
吉田正尚選手は、1年春から活躍していたということもあって、北陸では名の知れた打者でしたが、身長が低いこともあり、高校3年の時には有力なドラフト候補という声はかからなかった。
しかし、強く振れるということがかなり高く評価を受け、後に入学する青山学院のスカウト陣からスカウトされます。
スポンサーリンク吉田正尚選の大学時代は見事なプレー連発でスカウト陣から注目されるように!
吉田正尚選手が青山学院大学入学後の2012年5月に行われた中央大戦では、相手投手は有力なドラフト候補だった現在巨人の鍵谷陽平でしたが、そのストレートにまったく力負けすることなく、豪快スウィングでライト前ヒットを放ちました。
そこには、高校時代にはなかった吉田正尚選手の迫力が備わっていたのです。
- 2012年1年生:春季リーグの打率3.11
- 2012年1年生:秋季リーグの打率2.44
- 2013年2年生:春季リーグの打率2.22
- 2013年2年生:秋季リーグの打率2.24
- 2013年3年生:春季リーグの打率.300
- 2013年3年生:秋季リーグの打率.352
- 2014年4年生:春季リーグの打率.300
- 2014年4年生:秋季リーグの打率.352
大学時代は1年生で「ベストナイン」に選ばれる強力ルーキー
高校生からから大学に進むと、木製バットの対応にまず苦しむケースが多いが、吉田正尚選手は1年生の春から完璧に対応した上にいきなり打率3割超えの成績を残します。
東都大学の1部リーグで1年の春季リーグ戦から4番打者指名打者としてレギュラーを獲得し、ベストナインにも選ばれました。
吉田正尚選手は青山学院大学に入学直後から、並外れた成績を残していったのです。
春季リーグ以降は、3番として出場します。
当時は、2学年年上のオリックスバファローズで同じチームメイトになった杉本裕太郎選手が4番に座っていました。
吉田正尚選手の大学時代はすべてが順風満帆だったわけではなく、苦しい時間も過ごしたそうです。
スポンサーリンク大学2年で日米大学野球選手権大会の日本代表に選出!2年連続「ベストナイン」入りも!
1年の時に指名打者として2年連続のベストナインに輝くと、2年生の春季リーグでは外野手に転向して再びベストナインを獲得します。
2年春にはリーグトップの4本塁打を放ちましたが、12試合で11三振、打率.222、など粗さが目立ってしまいました。
この頃の吉田正尚選手は、高校時代の勢いのあるスウィングはかなり薄れ、三振か長打かというバッティングになっていた時期です。
大学1年生の時点で「このままで十分に行ける」と思って勘違いしていたんです。しばらくの間何も変えずにプレーしていました。
1年の時は、相手選手に自分のデータが何もない状態でしたけれど、ちょっと研究されてからは、打率が全然残せなくなってしまいました。
このままでいけると思っていた吉田正尚選手は、この頃大振りが目立ち、三振がかなり多かったそうです。
さらに追い込まれて同じスイングでどんなシチュエーションでも全部振っていたので、バッティングに幅がなくピッチャーが打ち取るのも簡単だったといいます。
しかし、ここからが吉田正尚選手変化します。
アマチュアのトップレベルの選手を見て、「自分は意識が甘かったな」と痛感しました。それまでは自分の興味があることしかやっていなかったのですが、「足りないところは研究して、取り入れなければダメだ」と思って、キツいトレーニングにも励むようになりました。
2年時からジャパンに呼ばれていたことが影響したそうで、明らかに身体つきが一回り大きくなり、余裕でボールを呼び込めるようになっていきます。
高アベレージを記録できるように長打力を残したまま進化を遂げていきます。
大学3年で「ハーレムベースボールウィーク」日本代表に選出!
3年生に上がり、練習時から自分の意識を変えていったという吉田正尚選手。
ただ単に、来たボールを遠くへ飛ばすのではなくて、ランナーを置いた場面を想定して逆方向に強い打球を打つとか、バットを出す角度を変えて、上からかぶせたりだとか、ちょっと下から出したりだとか、考えながら練習をするようになりました。
その結果、大学3年の春からは3季連続で3割を記録しました。
変化球の見極めもだいぶ良くなりましたし、ミスショットがかなり少なくなって一球で仕留められるようになりました。自分のバッティングをして、ボールを捉えられれば良い打球が打てるという感覚を持てました。
吉田正尚選手の大学4年間の目標は、
- 大学ジャパンに選ばれること
- 100安打を打つこと
こ2つをクリアできれば自然とプロに近づくんじゃないかと思ってプレーしてきたそうです。
実際に2年から大学ジャパンにも呼ばれ、リーグ戦では通算100安打を達成でき、目標が現実に変わりましたね。有言実行で本当にカッコいい…。
大学4年で金メダルを獲得した「侍ジャパン大学代表」での活躍でプロのスカウト陣から注目される
今夏、金メダルを獲得したユニバーシアードの全試合で侍ジャパン大学代表の4番を務め、大学2年から日本代表入りしている吉田は誰よりも侍ジャパンに対して強い思いを持っていた。
吉田正尚選手は、「U-18高校日本代表」との壮行試合でも2打席連続本塁打を放ち、強烈なインパクトを残しました。
5回、中京大中京の上野翔太郎投手が低めのストレート投じた投球を豪快にフルスイングし、打球はライトスタンドへ飛び込むホームランに。
伸びたなぁと自分でもまさかでビックリしました(笑)バックスピンが効いて、なかなか落ちてこない打球というのは自分の理想なんです。少しミスするとポップフライになりますし、練習試合でそうは打てないんですけど、このホームランで一気に周囲の評価が上がった気がします。
そして7回、イニングからマウンドに上がった花巻東の高橋樹也投手からバックスクリーンに2打席連続ホームランを放ちます。
甲子園球場のバックスクリーンにぶち込んだこの低い弾道の一発は、度肝を抜かれるものでした。
昔だったら打ちたいという気持ちが強くて、引っ張りにいっていたんですけれど、それがレフト方向に打てるようになってきたので、今はそこまで嫌だなという感覚はないですね。
吉田正尚選手はこの試合で2打席連続ホームランという結果を残しましたが、2本目の一発は特に速いボールの後の低めの変化球に完璧に対応した、パワーと技術が合わさった極みの一打でした。
ここからプロのスカウト陣から注目される存在になります。
青山大学時代に吉田正尚選手が養われた自主性とは?
青山学院は自主性が高いことも特徴で、全体練習は比較的短く、選手が自分に必要なメニューを考えて取り組む時間がたくさんありました。
自分で考えて練習することで野球に対する視野が広がり、考え方の選択肢が増えたことは、大学4年間の大きな成果だと思います。
もともと、子供の頃から自分でメニューを考えて熱心に練習に取り組んできた吉田正尚選手は、青山学院大学の方向性とぴったりだったことが分かります。
吉田正尚選手は、自分で考えて判断し、行動するという面でも成長できた4年間だったと語っています。
今振り返れば、高校卒業後にすぐプロに入団していたら、今の自分はなかったかもしれませんね。
大学に進んで、考える自由などの柔軟性を活かした練習があったからこそ、秘めていた才能がさらに開花したと感じますね。
1位指名を受けオリックスバファローズに入団
オリックス入団時にはウエイトトレーニングにも積極的に取り組んでいたおかげで体重が80㎏となっていて、これは高校時代から10㎏も増えており、努力してきたことが分かります。
青学大の先輩でもある井口資仁さんは、大学時代に24本もホームランを打っているのですが、ベンチプレスは120キロだと聞いているので、それくらい上げないと、プロでは活躍できないんだろうなと思いながら、そこを目標にして頑張っていました。
2022年12月に、「MLBのボストン・レッドソックス」と5年契約で総額約126億円とかなり大きな話題になりましたね。
そして、2023年3月のWBCでは大活躍し優勝へ導きましたね!本当に素晴らしい活躍ぶりでした!
今後、吉田正尚選手のレッドソックスでの活躍がとても楽しみです。
まとめ
以上、【画像42枚】吉田正尚の若い頃の伝説エピソードまとめ!子供の頃から異次元のバッティングだった?高校時代と大学時代の記録も辿る!と題してお届けしました。
吉田正尚選手の若い頃は、子供の頃から負けず嫌いで、周囲の誰よりも野球に対する熱い思いがありました。
小学生、中学、高校、大学、プロと確実に成長しているのが目に見えて分かる選手であり、自分の技術や体力、生活面、精神面においても、うまくコントロールできる強い心の持ち主です。
2022年末からメジャーへの挑戦が始まった吉田正尚選手のこれからの活躍が楽しみですね!
お読みいただきありがとうございました。
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